2006.開設した勇哲.洋子のポートフォリオ       2010.1.勇哲.洋子のポートフォリオ.は、38リンク3500pリニュアルしました
  
そして2017.7.より勇哲.洋子のポートフォリオ.へ続き      新.2025.勇哲.洋子のポートフォリオ.
 令和7年より 上瀧勇哲ホームスタジオ2125リンク5300p配信中です


 2008.1.公開・PART  新作2025.1.PARTご覧下さい   2025.1.写真追加しました


 不思議な慈母観音像のお話



                                   文稿 上瀧勇哲



 はじめに

この稿は平成16年、お正月の年賀状として230件の親戚、お友達等に観ていただきました。
今度はもう一度、再編集してご紹介するものですが、そのお話の内容は本当にあった出来事を正直に稿としてまとめたものです。

私達家族が現実に体験したことを、たくさんの皆様に知ってもらい、この世には不思議なことが本当にあるのだ、ということを紹介し、優しい慈母観音像のお姿をしっかり心の中で書きとめ、神様を信じる、手を合わせる、ことを私はしています。

そして、お世話になったたくさんの人々に感謝しながら毎日を勤め、今の幸福を慈母観音像様に感謝しています。

                             平成19年1月1日 再稿 bQ




西野 寿 さんとの出会い

このストーリーの始まりは、私が浦本洋子さんに恋をしたときから始まりますから、もう30数年が過ぎたことになります。

私は北九州市小倉生まれ、浦本洋子さんは北九州市若松生まれで、二人の出会いは若松の吉田印刷所となります。

そのきっかけをくれたのがお兄さんである浦本英二さんで、釣りを趣味を持つところが縁となり、二人はここで結ばれます。

その結婚に至るところには西野寿さんという若松では有名なおじいちゃんがいました。
おじいちゃんは洋子の親代わりであり、優しいお人柄でたくさんの方から親しまれていました。
そのおじいちゃんとの出会いが、この不思議なお話の始まりなのです。

彼女と二年ほど交際している間は、随分彼女の家で、おじいちゃんの手料理とツタエお母さんの愛情を頂き、我が子のように可愛がってもらいました。
正直、自分の家に居るより、こちらに居る方が楽しくてしょうがなかった時代でもあります。

勿論大好きな洋子さんがそばに居たかもしれませんが、それだけ彼女の家は笑いがたえない、楽しいお家でした。若い二人は、おじいちゃんの色々なアドバイスで若松の婦人会館で結婚式をあげ、
新婚旅行は長崎、雲仙に行きました。

新婚生活は吉田印刷所が持つ鉄筋4階建てアパート2棟、奥の2階に住むことになり、私たちは10年間ここでお世話になります。


 

同じ町内には若松おいべっさんで有名な海の神様、商売繁盛の恵比須神社があります。
勿論、お祭りにはみこしを担いだこともあります。

結婚して1年、早くも裕美が生まれ、5年後には真一が生まれます。
みんな西野寿じいちゃんが倉内産婦人科医院の院長さんと掛け合い、何もかもお世話してくれました。裕美は上瀧家、浦本家にとっても初孫であり、恵比須神社には色々な行事で通います。
幼稚園から小学校入学、そして運動会等いつも西野寿じいちゃんがそばに居てくれました。

そんなおじいちゃんが、ある日「私の形見として大切にしてほしい」と頂いたのが、お話の慈母観音像なのです。このときは私の実家や仲人をしていただいた益田さん、英二さんにも型こそ違うものの、像が贈られています。そして昭和55年 夏、82歳で亡くなりました。



ユーミン(裕美)の浜町幼稚園入園式  西野 寿おじいちゃんと英二兄さん


  西野 寿 お爺ちゃん遺言   平成21年7月1日公開 原文のまま


  西野 寿 お爺ちゃんの遺言    平成21年7月1日公開 原文のまま


    上瀧勇哲・洋子 様


  爺がながいかきして大変御世話様になりました。
  有難う御礼申し上げます。

  実子以上に温情ある行為、旅行、御馳走、
  心からの御土産など感謝の外ありません。
  
  洋子さんを友白髪までよろしく頼みます。
  気の強い面はあるが、あなたを心身共にしたいし頼りにして居ます。

  裕美ちゃんの幸福を陰ながら祈ります。
  洋子さんには筆舌に尽くせない御世話になりました、有難う、〃、〃。

  私が亡き後、母さん「ツタエ」の力となってやって下さい。
  尚、英二君のよき相談役とも頼みます。

  小倉の御両親始め、哲郎さん、周作さんへ様々御世話になりましたと、
  あなたよりよろしく御礼を申し上げてください。

  あなたは上瀧本家の継嗣ぎですから、将来共に忙しいことが多いでしょう。
  一生懸命がんばって幸福なる一生を過ごせされます様祈ります。  

  翁、最後の言葉として遺します。





動く仏像

若松で新婚生活を始めますが、3DKの一室に洋子のお嫁入り道具の中に、おじいちゃんから見繕っていただいた応接台があり、この応接台の上に慈母観音像を置き、鮮やかな造花の花瓶を置いて気分良く釣りの原稿を書いておりました。

ある日、何を想ったか、私は玄関の下駄箱の上に慈母観音像を置き、後方に姿見の鏡を掛けておりました。玄関に慈母観音像を置くことで、毎日出入りする私達やお客様に見てもらうつもりでいましたが、その観音様が何気なく動くのです。イヤ、動いている気がするのかもしれません。
それにしてもその動き方が変なのですね。下駄箱から落ちそうなんです。
でも重さ10kgもある重いものですから、そう簡単に動くことはないし、誰か触っているのでしょうと想い、再び、きちっと台座の上に置き、正しく慈母観音像様を見ながら毎日会社に行き、週末はお魚釣りに励むのです。


ところがある日、その像がドスンと落ちたのです。高さ1mもある下駄箱から落ち、ちょうど娘が幼稚園から帰ってきたところなので、もう少し時間がズレていたら娘の上に落ちたかも知れない!! ということを洋子から聞きます。「でも、まさか?」ということで、再び下駄箱の上に置くのですが、数日後再び落ちて、今度は観音様の右手に持つ徳利の口の部分が折れてしまいました。

何か不安をいだく洋子に比べ、私は誰か悪さをしたんだ、という腹づもりで信じていません。でも危険ですから、今度は応接間にある大きなステレオのスピーカーの上に置きました。
その室は終日日が入り、暖かく広い空間がありますから慈母観音像が安心したのか、動く様子はありません
でした。そのような予感はしますけど、まさかそんなことはないと想うようになります。


   

小倉南区志井に引越し

私が34歳になった年、思い切って小倉南区志井の中古住宅を購入します。もちろん有り金全部はたいてローン組んで大変ですが、男として一生に一度は考えなくてはならないことですし、優しい妻や子供達のことも考えれば、そう想い、誰の手助けも借りずに、すんなり志井に引っ越します。

住まいは翌年開通される北九州都市モノレール志井駅からわずか5分足らずの便利の良いところで、娘は歩いて15分の志井小学校に転入。
真一は翌年の4月、志徳幼稚園に入園することになり、私達家族はこれより17年間この地でお世話になります。

慈母観音像は一階和室の床の間中央に置きますが、我が家には仏壇がありませんので、お正月には若松のときより、オモチと葉ミカン、そして、塩とお水をお供えし、仏様がわりとしています。

新しい家に引っ越してからは何ごともなく、子供達に関連するPTAや町内のお世話係から魚釣りに夢中になれる日々が続きます。ところが、ある夏の日曜日の出来事です。

早朝の日差しがカーテンごしに入り、床の間に近いところで寝ている妻の赤い布団の上に慈母観音像が立っていたのです。普通なら転げ落ちて、布団の上で横たわっているのならいざ知らず、まさか立っていようとは夢にも想いません。それで私が妻に聞くのです「布団の上に観音様を置いたん?」
すると「そんなことするわけないヤーン」とケンカする始末。

子供達二人は二階の室で、それぞれ寝ています。この時、娘は志徳中学校に通い、息子は志井小学校2年生ぐらいですが、だれも悪さしたとは言いませんから、このときはこのままですませます。 




水を引く慈母観音像

西野 寿じいちゃんが亡くなってから6年が過ぎ、形見で頂いた慈母観音像は色、彩も良く、ピカピカに光って見えます。おじいちゃんが手書きした仏像台座の文字は、はっきり見えますが、チョット残念なのは右手で握っている徳利の口の部分が欠けていることです。
それ以外は奇麗な顔立ちで洋子に似ていると私は想っています。

それと、おじいちゃんから貰った浮世絵の美人画は、かなり古いもので、来るお客様は皆これをほしがります。けど、数十万円もする磯竿より、こちらの方がズーッと宝物で大事にしています。

そのような宝物に加え、又一つ頂いたのが洋子のお母さんが描いてくれた山水画の掛け軸です。
これはタタミ一畳の大きさで、カラーで描かれ、色合いも奇麗で明るく、構図から筆づかいのタッチが微細で、とにかく見る人を絵の中に引きずり込ませます。
その絵を床の間に飾り、その前に慈母観音像を置いていました。

そんな夏の日の日曜日、大変なことが起こります。
いつものように床の間に近いところに妻が寝て、その隣に私が寝ています。朝日がカーテン越しに差し込む早朝、何気なく目が覚め起きると、朝日の中で仏像が妻の布団の上に立っているのです。
驚いて飛び起き、台所で弁当を作っている洋子を呼びつけます。

この前の再現を見ているようでしたが、今度はもっとびっくりします。
慈母観音像が立っている赤い布団がびっしょりなのです。
なんで布団が濡れているの?で、よくよく見ると、床の間に掛けてある山水画の川から流れ出たような水の形跡があり、床の間から川となって妻の布団に注がれている水の帯があるのです。

洋子が仏像を手にとって見ますと、仏像の足下から水が流れ出た後があり、ヒタヒタと仏像から水滴が垂れているのが分かるのです。赤い掛け布団を取り、敷き布団から、その下のタタミまでたっぷり水がしみ込み、しばらく唖然として声もでません。
このときは子供達も起こし、事情を説明するのですが、こんなことをする分けもありません。

このような不思議なことをする仏像に驚きながらも、お清めの塩と米、新しい水を供え、奇麗なお花を飾り、おおきな水彩画の絵がある床の間が見違えるように奇麗になりました。
そして、このようなことをした慈母観音像の出来事を親戚の方々にお話しするのですが、だれも信じてもらえなくて良い、と想うのですが、黙ってはいられないのですね。

母の応援で念願の新築

中古で購入した家も新築から26年もたつと、あっちこっちで手入れが必要となり、屋根瓦のペンキ塗り、外カベの張替え、台所から洗面所のフローリング、内装のカベ張り等、材木屋さんとお友達になれるぐらい全て自己流で補ってきました。
しかし購入ときから雨漏りする原因が分からず、とうとう新築する決心をしました。

資金はないけれど、生命保険の解約でどうにかなるとおもっていたところ、洋子のお母さんからたくさん応援をいただけることとなり、私達夫婦は新しい家の設計図を書いてみました。
30坪の土地をフル活用して、一階は車二台を置けるスペースを作り、和室と水廻りの台所、リビングとし、二階は5室とし、念願の書斎を確保し、角地を利用して道路沿いの長さ12m、幅1mの長いベランダを付け、日差しが全室に入る明るいオープンな家を考え、小倉南区の大石建設さんにお願いし、社長みずから私達が希望する設計図を作成してもらいます。

家作りは春から年末にかけて完成し、その間は家の近くの堂園さんが入居している店舗 兼 アパートで暮らします。そのお店となる20畳ほどの玄関に慈母観音像を置いていましたが、何事もなく、娘は小倉南高校を卒業して、小倉KMMビルにある会社の事務員として勤めていましたが、友達の誘いでイギリスに英語の勉強に行き、真一は志徳中学から八幡の九州国際大学付属高校に通う毎日でした。そして念願の新築に正月前、引っ越します。

戸を開ける慈母観音像

一階和室の中央に仏間、右に床の間がありますが、問題の慈母観音像は仏間に入れて、仏様かわりとしました。もちろん塩と水、お米をお供えし、榊を両サイドに置き、神様らしくなりました。

しかし、ここから不思議なことが始まります。
家族が寝静まると決まって、カタン、コトン、グギッ、グーッ、ドーンと家がきしむような音がします。
私達家族は皆二階で寝ていますから、「おかしいョー」と娘が言います。
息子も「変な音がする」と言い張りますので、私は新築の家だから木と木が内気と外気の温度差できしんでいる音だと説明するのです。

そんなことを言っているある日の朝です。
仏間を見ると閉めておいた仏間の開き戸が開いているのです。
中には慈母観音像が優しく微笑みかけてくれます。
で、妻に「開けたんネェー」「イヤ開けんョー」「そうか?」で再び閉めてしまいます。
普段は仏間に用事はないので閉めているのです。

床の間は狭くなったので、お母さんが描いてくれた大きな山水画は飾れません。
そして数日後、再び仏間が開いているのです。
妻に「開けた?」「イヤ開けんヨォー」でチョットおかしな雰囲気になってきました。
「夜になると誰か歩くような音がするし」「仏間の戸が開いている」等々で夕食時、家族会議です。
誰も知らんことですから、たぶん慈母観音像が暗い仏間をイヤがって開けるのだということにして床の間に置くことになりました。

半畳ほどの狭い床の間に、お祝いで貰った置物もありましたので、慈母観音像は小さな掛け軸のカベぎわに起き、いつものように塩と米、水を供えます。前には藤崎好夫さんから頂いた可愛いお人形ケース等置いていました。しかし、ここも像がイヤがってか、台座から転げ落ちそうになるぐらい前に来ているのです。これが三度も置きかえると、さすがに不安になります。

それで陽の光が差し込める一番前に置き、家族や来客する方が一番良く見えるところに置いてやると、
それから何事もなかったかのように慈母観音様が私達に微笑んでくれるのです。
もちろん仏間のとびらは、その後一度も勝手に開いたことはありません。

赤い涙


お話しは再び古家ときに変わります。
私家にしょっちゅう遊びに来る弟の周作家族が居ます。
奥様の高子さんは信心深い方で、毎朝「般若信教」のお経を唱え、家族を大切にする心の優しい方です。娘さんの奈菜ちゃんは高校生になりますが、驚くようなことを発見したのは中学生のときです。

ある日、奈菜ちゃんと遊びに来た高子さんが慈母観音像を見て「アッ、お姉さん、目から涙を流しているョ」と叫んだそうです。洋子は「まさかでしょう」なんて言います。

けど、奈菜ちゃんも「おばちゃん、赤い涙流しているョ」と言いますので、しばらくは親戚兄弟揃って「これはタタリじゃー」なんて驚かすのですね。そのときは新しいタオルでお顔を拭き、奇麗にしてから美味しい水と塩、お米を捧げ、皆さんで手を合わせたそうです。

       

行橋市元永に引越し

小倉南区志井で大変お世話になった毎日新聞徳力販売店を経営する末永さんは、私の祖父母が終戦当時、八幡から守恒に移り住み、2山の山林を切り開いて農場を経営していた当時からの知り合いだそうです。私は母方のおじいちゃん、おばあちゃんが住む守恒で生まれました。

その末永さんは若いころ行橋市元永の山林から材木を伐採したこともあり、とても旨い水が出るところだと教えてもらいました。その元永に引っ越すきっかけは勤めていた会社が倒産し、行橋市の田中印刷所に勤めることから始まります。

行橋市宮の杜には弟と二人暮らしの母が居ますし、三男の周作もすぐそばの勝山町に住んでいます。それで兄弟仲良く母の元で暮らしたい、それに都会の狭っくるしい生活環境がイヤになり、引っ越すことを夫婦して思い立ったのです。

それでも、せっかく新築したのにと皆から言われるのですが、子供達も大きくなったので、無理なく新しい環境にとけ込むことを決心したのです。
それで家探しの方ですが、新聞や不動産を読みあさり、たまたま特売物件で早物勝ちの、この家を妻が決め、鰍キえまつ興産の友枝さんによるお世話で購入し、新築した家も売りさばいていただきました。

引越しには、釣りクラブの、川原さんご夫婦が自慢のクレーン付きの10トントラックでしてくれることとなり、
釣クラブ会員さん達が15人も加勢に来てくれ、おまけに彼達のワゴン車9台も引越し荷物を山積みにして運んでくれましたので一気に引越しできました。
大切な慈母観音像は私の自家用車で運び、床の間に置きます。

その床の間は6畳の和室と洋室がつながり、リビングまで見渡せる広い空間があります。しかも、東の周防灘から朝日がガンガン入り、中庭の芝生広場から新緑の香りが入ってきて、心地良い風が観音様に触れてゆきます。そんな住まいの環境に慈母観音像様は大変嬉しそうに微笑を浮かべています。

その後、弟が勤めるTOTO機器より社員価格で水周り用品を全て取り替え、代理店の神埼工務店さんの色々なアイディアでリフォームしました。

2年後には、そばの築上航空自衛隊があることで、国費による防音工事ができることになり、
更にリフォームされ現在に至ってます。

田ンボの中の一軒家で自然美に囲まれた優しい環境があります。そして、なにごともなかったかのように慈母観音像が広い床の間を独り占めして、優しく私達を毎日見つめています。



家族を見つめ、やがて30年

洋子が言います「この観音様、西野 寿じいちゃんがのりうつっているのかナァー」
私はそうは想いません。優しいお顔はいつも愛情で一杯。
ときどき奇麗なタオルで拭いてやるのですが一つも汚れてないのが不思議なぐらい。
しかもお体全体にサビ一つなく、とても奇麗だし、見ていても飽きがこない。毎日見ているせいかも知れませんが、その姿を見るだけで心がスーッとカラッポになってしまうのですね。

これまでの沢山の不自然な出来事を振り返りますと、その要因は私達家族にあったような気がします。
家庭不和は表に出さないけれどたくさんあります。人様に紹介できない家族のケンカは数知れず。

若いころケンカして洋子が実家に帰ってしまいます。
すると寿じいちゃんが「夫婦ケンカは犬も食わん」と言っては、いつも美味しい手料理を御馳走してくれ、仲直りしては帰宅したものです。

おじいちゃんが亡くなってからもズーッと私達の私生活を見てきた観音様はときどき何か言いたげな顔をされることがあります。しかし現実には変えられません。

やっぱり色々なところで諍いを繰り返していました。もちろん今でも飽きずにケンカをやっていますが、
その内容はお金とか女とかギャンブル等といったことのケンカは一切ありません。全て家族なんです。チョット変なところにお話が進んでいきそうですが、私達家族を余すことなく全てを見て戒めてくれた観音様が現実に居てくださることを皆様に紹介し、生きることの難しさ、人間模様のありようを問うてくれることに感謝し、神様、仏様を信じることを今一度確かめ、礼を尽くすことを私達はしないといけない、そう思います。

この稿は平成16年12月25日に書き上げたものです。
今度は、ホームページ紹介ということで、平成19年10月に手直しして紹介しております。

慈母観音像

優しい顔立ちの観音様は女性ですが、母が子を想う心を見つめ、育てるお姿と想います。
雲の上に立ち、お月様の明かりで人間界を観、子を育てる泉の徳利を持ち、優しく注いでいる様子を描いた観音様です。


   慈母観世音菩薩

        大慈大悲の徳があり
         救いの求めに応じて
           姿を現す菩薩なり

                       西野 寿



母が絵描いた水彩画の川から水を引く慈母観音像

 
その不思議な出来事の秘密を発見 !!

これまで不思議な出来事を紹介してまいりましたが、なぜ山水画の川から水が流れ出たのでしょうか。なぜ母が描いた掛け軸なのでしょうか、分からない不思議なことがあるものです。
その秘密を知るきっかけは、絵を描いた母から知ることになります。



ツタエお母さんが描いた山水画の由来

平成18年8月盆。長崎大村市から見明正臣さんと一緒にツタエお母さんがやって来ました。
毎年の盆は2〜3週間、お母さんが私達家族と一緒に過ごします。

今年は特に大動脈瘤乖離という病気で入院し、生死をさ迷った時期もありましたが、義理のお兄さんである見明正臣さんの必死の看護と洋子の二ヶ月あまりの付き添いでなんとか命をとりとめ、四ヶ月間の療養から無事退院され、初めての我が家です。

そのツタエお母さん、いつものように買い物に行けるほど元気になり、驚いています。
そしてお盆の間、色々なお話を聞くことができました。

今度は特にホームページを立ち上げ、見明ツタエ集のページも作りますし、見明家や浦本家等のお話をたくさん聞いてノートに書き留めています。その中で山水画を描いた掛け軸にまつわるお話を改めて聞きます。すると驚くことを言い始めました。



長崎県平戸藩、玉置十郎の子孫

30数年前より釣りで通っている長崎県北松浦郡平戸島は、昭和38年開通した平戸大橋を渡って南の宮野浦港沖の磯釣りからサーフのキス釣りに30年近く通っているホームグランドです。
その平戸大橋そばの山頂に平戸城があります。

まだ一度もこのお城に行ったことのない私は今夏どうしても行かなくてはならない事情を秘めていました。それは、洋子ちゃん育ての親と言っても過言ではない西野 寿おじいちゃんのご先祖様が、このお城に使えていたからなのです。

平戸藩おかかえの玉置家は数十石の家柄でした。
江戸時代末期、最後の藩主である松浦 に、仕えていた玉置十郎は、江戸づめの武士で、藩主おかかえの蘭学者でもあり藩公おかかえの教育者として、多くの門下生がいました。

幕末、藩廃置県の改革により、玉置十郎が江戸から帰り、平戸城そばに住み、寺小屋を築きますが、その詳しい内容は亡くなったおじいちゃんから少ししか聞いていませんし、寿おじいちゃんの直結的なお父さんは明治時代、西海橋に近い針尾島の学校の校長先生でした。
詳しい家系や玉置家から西野家に移りかわる時代絵巻図を少ししか知りません。
そのことを多く知る為にも平戸城と平戸藩主、松浦家代々の資料を収めた松浦歴史博物館に行くことになったのです。



山水画の掛け軸の元は、玉置十郎の漢文碑です

西野 寿おじいちゃんが元気なとき、浦本英二さん、ツタエ母さんと三人で平戸城内にある玉置十郎が書いた漢文、タタミ一畳ほどの記念碑文(石碑)を見に行きました。

この碑文は玉置十郎亡後の門下生が築いたもので、その生徒さんと玉置家、西野家、見明家等の交流で西野 寿おじいちゃんが記念に10枚ほど碑文(石)を拓本しました。

拓本は墨と赤色で、それぞれを掛け軸にしました。その掛け軸をおじいちゃんの子供達6人に贈ります。その内の1枚をツタエ母さんが貰ったのですが、朱赤文字であるため淡く消えて、冴えない事情でお母さんがこの拓本を真っ白く塗りつぶし、その上から問題の山水画を描いたのでした。
                                       
私がまず知りたいのは、その石碑文の内容なのです。
どのような文句の漢文なのか、碑文の意味を知りたいのです。


 

平成18年6月に妻と平戸城へいきました。初めて登った天守閣、平戸港から外洋の瀬戸の眺望は素晴らしいものがあります。場内を案内してくれた占部さんに色々なことを聞きましたが、平戸城内は観光的に模様替えされ、石碑は移転したとのことです。

その移転先の歴史資料館にも行ってみましたが、ここでも移転され、まだ碑文は探しあててないのが実情です。いずれ平戸市観光課の占部さんから連絡があるので分かりしだい取材に行くことになっています。

                 つづく


 


                         平成19年12月1日再稿 bR

平成19年夏、慈母観音像が動いた

小倉南区志井から行橋に引っ越して早7年が過ぎました。
その間、家族の中には色々な出来事がたくさんあります。
良いことも、悪いことも沢山あります。
人間ってなぜ苦労して生きていかなければならないのだろう。
どうしてこんなに悩みごとがつづくのだろう、と、ふと人間がイヤになってしまうことがあります。

その要因が家族であれば、なおさら思いが強くなります。自分勝手な思い込みかも知れませんが、私は家族を大切に想い、妻や子供を愛しています。

人それぞれ一生懸命生きているのは分かりますが、どうしても自分本位に物事を考え、動作と言葉で表現してしまいます。それ故、ことの現実を受け入れてもらえないわがままから悩み、苦労が生まれます。

そんな生活の中で物質的に理解できないことがあります。
それは慈母観音像が動くことなのです。
床の間に置いてある慈母観音像は普段使われないお母さんの部屋でくつろいでいます。
和室6畳と洋室6畳をフローリングにした12畳の部屋に居ますが、そこに母さん用の電動ベットに3人掛けのソファー、母さんの洋服タンス、それに29型のテレビにDVDカラオケをセットして、母さんが大村市から帰ってくるのをいつも待って居ます。

母さんの部屋から大きなカーテンの向こうは20坪の芝生広場に噴水があり、サンゴジュとアカメの垣根から高さ10mほどのクロガネモチの木が三本。他に大きなモクレンからフヨウの木、紅葉の木等、色々なものを塀に沿って植えています。

そして、その先は小高い山並がつづき、10q先には長井の浜海水浴場があり周防灘とつづきます。お天気の良い早朝には朝日がガンガン入り、床の間に立っている慈母観音様は、たいへん嬉しそうなお姿で微笑んでいるようにも伺えます。

母が描いた山水画も床の間を引立たせ慈母観音様と凄く似合っている構図は自慢の部屋でもあります。そんな素晴らしい環境の中、慈母観音様は何事もなく過ごしておられました。ところが最近、観音様が不思議なことをしはじめました。

異変に気付いたのは今年、平成19年9月のことです。
観音様が立っている台座から転げ落ちるキワの、20pほど動いているのです。
それで最近、昔のことを思い出し、気を使いながら扉越しに観音様を見守っています。
しかし、3度も台座の真ん中に置き直しますと少々不安が出てきました。




観音様が歩いた

娘、ユーミンが大阪の荒木家に嫁いで1年がたちました。
9月15日は彼女の結婚記念日ですが、もう娘のお腹には女の子が育ち、11月15日は出産予定日だそうです。その娘とほとんど電話したことがないのに、思いあまって二度ほど悩みを聞いてもらいます。その悩みとは最近、慈母観音像が動くことなのです。

決定的な電話は観音様が床の間から台所そばのドア前までの12mを歩いたことなのです。
今、夫婦二人暮らし。妻は昨夜から留守にしています。
したがって私一人しか居ない家で、誰が慈母観音像を触ることができるのでしょうか。
念を押しますが私は身命に誓って慈母観音像を動かしたり悪ふざけなことを昔から一切した事はありません。そのときを再現します。

9月21日、金曜日、朝、いつもどうり6時30分に起きます。
本当は5時から目が覚めているのですが、なにもすることがないのでベットで目を閉じているだけです。毎日の生活パターンは朝起きると、トイレと歯磨き、洗面。
朝食はコーヒーにトースト一枚、トーストには妻が手作りした、ブラックベリージャムをつけ、新聞代わりのテレビニュースを見て出勤します。

もう一つ大事ことはお母さんの部屋の慈母観音像を台所からガラスドアー越しに見ることです。以前は何事も無く朝のご挨拶程度のチラッと覘く程度でしたが、最近は動いていないか心配しながら観ているのです。

その母さんの部屋はレースのカーテンしか、していないので朝日がまぶしいぐらい入りとても明るいのです。そして出来事が起こります。

台所から床の間に続く12畳の母室は大きなガラス戸に閉められているので、ガラス越しに何気なく床の間を見ると、あるはずの慈母観音像がいません。!!
目を凝らしてもう一度確認しますが居ないのです。
だんだんと恐怖心におちいって、ガラス戸を開ける勇気がありません。
12畳の室は全部戸で閉められているので、この室から出られるはずもないし、昨晩から私一人しか居ない。




しかも昨晩の夜、私は観音様を見ているし、毎日必ず観音様が動いていないか確認するのが最近の日課にもなっているのでその観音様が居ないはずは無い、まさか!!で、戸を開けないで室をよーく見ると私の足元、ドアの向こう側に立っているのです!!
びっくりした。驚いた。
血の気が引いたような想い。

玄関側から入る室に入り、その驚きの現実を見、ドア前に立っている後姿の観音様を写真に撮り、そのままの状態で私は会社に行きました。



そして昼間、妻が帰宅してドア越しに居た慈母観音様に気がつき、私が悪さをしたのだ!!というイメージで床の間に置いて、なにごともなかったかのように妻は感じなかったそうです。
会社から帰宅して妻に問いただすも、たいして気遣うこともなく済ませるのです。しかし、それでは気がおさまらず、普段お世話になる行橋市今川の正山寺へその夜行き、慈母観音像についての今までのいきさつの話しを聞いてもらいます。

住職は43歳 生土昌行さんで、母が行橋市に住まいを構えてから壇家としてお付き合いをしています。母が亡くなった3年ほど前から上瀧家長男としての責任でお寺さんとの絆を深くしています。その中で、今度の慈母観音像の話しを聞いてもらったのですが問題はなぜ慈母観音像が動くのか!!です。

住職は「上瀧さんがそう想っているのなら本当に動いたのでしょう」とのことですが、問題の核心には至ってないのも事実です。

私は慈母観音様が家族に何か呼びかけている気がしてならないのです。

その思いは複雑なのですが、不思議な事をする慈母観音像にただ手を合わせるしかない、その現実を受け入れながら今、迷っているのです。

   


皆が居る台所に鎮座する慈母観音様

娘、ユーミンが早めの里帰りとなり、九月末、お腹を大きくして帰って来ました。
どうも赤ちゃんの成育が良くないらしく、帰郷して母の元で産婦人科に通うことを指示されたそうです。

帰郷して一週間、安全なお産を考えて大きな病院に入院することとなり、5日後には帝王切開して無事、女の子を出産します。

子供は1200g、保育器の中で25日間育てられ、1ヶ月後の11月初旬に無事退院。
母も子も全て良好な状況に戻り、毎日孫の美優を抱っこしミルクをやり、お風呂に入れることを楽しんでいます。

11月27日現在で3200gとなり、大きな目と濃い眉毛は妻、洋子にそっくりだし、口元から頬にかけては娘、ユーミンに似て美人。


 

しかも長い手足。
将来ファッションモデルになりそうな美女が孫なんて信じられなーい、なんて想いながら、台所で美優をあやしながら側で観ている慈母観音様に感謝しながら手を合わせ、感謝の念を毎日送っているこの頃です。

因みに慈母観音像さまが、皆が居る台所とリビングの部屋に来たがっていたので、台所にある神棚下の電話台に置き、毎日私達と顔を突き合わせて観てくれて居ます。


     


不思議な慈母観音様

もうすぐお正月、今年は初孫が産まれ、不幸な事は一つも無かった。
心配事は多大あるが、それをクリアーしたユーミン・ママと美優ちゃん(ミーちゃん・モンダ虫)それにいつも気遣ってくれるノブノブ・パパさんに感謝。

このごろは美優ちゃんをあやしながら「モンジャ虫」というあだ名をつけてやった。
手と足をバタバタ、モグモグ、動かすのでそう名付けたのだが、抱っこしながらモンジャ虫と語りかけていると、ヒャー、フウー、ジャーと返事をしてくれる。

「ユーミンがお父さんと、お話しをしている」と、そばで言っている。
そんな幸福もお正月を過ぎれば大阪に帰ってしまう。

私の両親はもうこの世に居ないが洋子の母が元気だし、私の身内は皆元気。
健康で病気せず毎日が幸福であることが一番の喜びだし、慈母観音様も、たぶん私達家族の一員である事を願って、動いて居るのかも知れない。

家の中心にある広い台所、リビングが見渡せる居場所がほしかったのではないか!!
そう想いつつ、今度はここで終わりとします。

                    2008.11.1









  
平成21年1月1日再稿 bS 2020.1.12. 写真追加しました




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