2006.開設した勇哲.洋子のポートフォリオ 1 2010.1.勇哲.洋子のポートフォリオ.2は、38リンク3500pリニュアルしました そして2017.7.より勇哲.洋子のポートフォリオ.3へ続き 新.2025.勇哲.洋子のポートフォリオ.4へ |
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2025.1.1. リニュアルオープンしました 皆さんお元気ですか musick 幸せの鍵(ポール・モーリア)17 |
子育てを始めた若松の環境
昭和49年3月、若戸大橋そばの吉田印刷所 社宅より新婚生活が始まった。
そして昭和50年1月30日、裕美が生まれた。
当時の若松は戸畑、八幡の工場群から赤、黒、茶褐色の煙がモクモクと上がり、
山並と青空を隠し、すぐそばの若戸大橋さえも淡いスモッグに覆われ、毎日が曇空のようだった。
しかも公害都市を象徴する洞海湾は、まっ茶色に染まり、悪臭を放ち、
ヘドロの海が手の届くところにあった。
私達の生活は、その洞海湾そばの4階建て社宅から子育てが始まった。
長女 裕美(ユーミン) 誕生
しばらくは夫婦で同じ会社に勤めていたが、
洋子のお腹に赤ちゃんをやどし6ヶ月まで彼女は働いた。
洋子の親代わりである寿じいちゃんの紹介で社宅そばの倉内産婦人科に検診し
ツタエお母さんが見守る中、昭和50年1月30日、長女 裕美が誕生した。
このとき洋子はまだ20才前。本来なら成人式に行く年であったが、
お腹が大きく、行けなかった!! と、いまだに彼女は後悔している。
生まれたての裕美の体重は3200g。予定日より遅めの出産で、
陣痛がなかったので早めの入院となり、注射で陣痛をおこし、一週間後、無理やり出産した。
裕美は上瀧家、浦本家にとっても始めての孫で、たくさんの方より祝福された。
1ヶ月後、そばの「恵比須神社」でお宮参り。双方の母が来てお祝い。
少々の祝行事も自宅でおこない、寿じいちゃんが全て取り仕切ってくれた。
初めての雛節句、初正月等は、親、兄弟、親戚、
釣り仲間が入れ替わり我が家をねぐらにしながら裕美と遊んだ。
特に洋子の兄、英二さんは我が娘のようにユーミン(裕美)を可愛がってくれた。
裕美(ユーミン)、浜町幼稚園に入園
寿じいちゃんと英二兄さんは、我が子のように「裕美ちゃん、裕美ちゃん」で
可愛がってくれるので、私より英二兄さんを好いているのが分かる。
そんな英二兄さんが今日も夜勤明けで入園式に連れて行ってくれた。
と言っても社宅(家)から徒歩で10分ほどの浜町幼稚園で近い。
寿じいちゃんが、いつものように付きっ切りで入園の手続き等を取り仕切ってくれ、
洋子にとっては大変心強い。肝心の私は仕事で休みがとれなかった。
幼稚園の制服に帽子、カバン。はしゃぐ可愛いユーミンに幸せを感じるが、
暇がないほど残業に明け暮れ仕事に疲れる私。その精神的ストレス解消法が魚釣り。
上瀧三兄弟と英二さん、それに加わる仲間達との釣りコミュニケーションに、
ときどき洋子と裕美が仲間に加わる。充実した日々がアッという間に過ぎる。
長男 真一が誕生し、宮参り
若い二人はまだ遊びたい。子供が増えると遊べないし、お金もかかるので、数年間あけた。
そして次の子が女の子なら、もう一人作る? ことまで考えていたら、ベストヒットした。
昭和55年6月10日、同じ町内の倉内産婦人科で真一が生まれる。
私は会社務めで出産に立ち会うことができなかったが、
ツタエお母さんが勤め先から慌てて駆けつけてくれた。
その真一、大きな顔して乳を吸うので洋子が言う、
「お父さんのような醜い顔で乳を吸っている?」
体重4000g、大きく生んだ。命名は寿じいちゃんの本を借りて、
字画とか上瀧家の長男としてふさわしい等で上瀧真一と名付けた。
もちろん男ならこの名で、女なら○○と1ヶ月前から決めていた。
1ヶ月後の宮参りには、そばの恵比須神社で双方の母を迎えてお参りした。
社宅で親戚兄弟皆来てもらって祝い事をした。
お祝いの菓子箱は若松駅前の光月堂で選んだ
「甘いヨウカンで作られたコイのセット菓子」を贈った。
賑やかなお祝いをしている最中にも、洋子の母乳にむさぼりつく真一の形相は、
ふてぶてしい顔がまえがあり、なぜかしら男らしさを感じていたのは私だけか。
悪ガキ大将、真一
エアコンのないアパート二階の部屋を開けると、海風とヘドロが入り乱れた悪臭が入ってくる。
時々は工場特有の臭いが風に乗って入り、風の強い日は鉄の粉が洗濯物を黄色にさせてくれる。
激しいときには部屋中がザラザラして砂がこぼれたような感じ、ゆわ揺る煤煙である。
今想うと、とても住める環境ではなかったが、これが普通の時代であった。
1才半ばでオシッコを漏らす真一は裕美よりかなり遅れているし、
母乳をあまりにもしつこく飲むので、乳首に塩をつけたり、唐辛子を塗ったりし、
なんとか乳離れをさせた。
おふくろが言う「男の子と女の子は成育が違うのョ」と。
その真一、3才になると同じ年頃の大久保雅貴くん、藤島秀行くん等、
4〜5人居た年頃の大将?となり、暴れまくり、アパート内でも評判の悪ガキとなった。
その頃の思い出は洋子が詳しいので、ここから彼女へバトンを移す。
吉田印刷アパート2棟32軒は、真一と同じ年頃の子供が5人ほど居た。
その中でも真一と雅貴くんは大の仲良しでした
二人は、ほとんどケンカをしませんでしたが、その他の友達には
「自分が強いのだ!!」というように悪ガキ振りをいつも発揮しています。
真一が外に遊びに行くとき「友達と仲良く遊びなさいよ!」と言うのですが、
返事は「ハ〜イ!!」と、いつものようにバタバタと出て行きます。
しばらくして二階から中庭の広場を見ると案の定、よそのお母さんから叱られているのです。
アパートの中庭に砂場とブランコか2つあり、そのブランコの片方にHくんが乗って遊んでいると、
決まって真一がブランコを振り動かし落としてしまい、自分のものだと言うように遊んでいます。
「ワァー、ワァー」と大声を上げて泣くHくんの側でお母さんが真一君を叱っています。
けど平気なんですね。又、友達の車オモチャを奪い取り、
自分が大将のようにしたがえ遊んでいるのです。
それで友達のお母さんから「私の息子のそばに近寄らせないで」と、
言われた事が度々ある悪ガキなんです。
洋子ちゃんが見た、裕美、真一の学校時代
裕美と真一は5才違い、学年では6年違います。
真一が生まれる前の裕美は皆からチヤホヤされ、甘やかされ、思いっきり自分の我を出し、
この世に私の敵は居ないのだ、というくらい伸び伸び育っていました。
しかし、裕美ちゃんは、幼稚園に入ると様子が変わってきます。
まず私から離され、知らないお友達の世界に放り込ませてみました。
入園当初は先生に噛みつき、「家に帰らせろー!!」と言って先生を困らせていました。
そんな裕美を見て「私の育て方が悪かったのか?」と、反省ばかりでした。
しかし真一が生まれると、反対にお姉ちゃんらしくなります。
今まで自分一人で食べていたお菓子も、決まって「これは真ちゃんに」と、
大きいものを分けて与えているのです。
この光景を見て「お姉ちゃんだナァー」と微笑みたくなるのですね。
真一は、大きな、お姉ちゃんに守られ、スクスクと悪ガキぶりを発揮させているのですが、
それでも挨拶だけは人一倍大きな声で「オハヨウ!」「コンニチワ」と、誰にでも挨拶するのです。
顔はオッサンしてますけど、皆から可愛がられたように想います。
裕美が浜町小学校に入学します。同じアパート内には藤崎小百合ちゃんや大久保智美ちゃん、
小田陽子ちゃん等、たくさんのお友達が出来て忙しくなります。
真一君もお姉ちゃんから卒業して、大久保雅貴くんと大の仲良しになり、
いつも二人で一緒に遊んでいます。
内気な私も大久保さんから誘われ、戸畑の交通公園に子供達を連れて遊びに行ったり、
戸畑山笠のお祭りや高塔山プールまで乳母車を押して歩いて遊んだこと等、
色々と楽しい事たくさんありました。
裕美の幼稚園、小学校、中学校時代は、真一が居たので学校のPTA役員は、
ほとんどしていませんでした。
しかし、真一のときは幼稚園から小学校、中学校まで毎年PTAから町内の役員をしてきました。
役員をしていると学校に行く機会が多くなり、校内で真一と顔を合わせると
嬉しそうにしているのを見て、ついつい親バカになってしまう?のかも知れません。
英二さん結婚、寿おじいちゃん亡くなり、ツタエ母さん大村へ
私達二人を結びつけた英二兄さんは同じ会社の大山千代美さんと結婚します。
そして私達をここまで支えてくれた寿おじいちゃんが「心不全」でこの世を去ってしまいます。
熊本では、洋子のおばあちゃんが88才で亡くなりました。
また浦本家の長男である諭おじさんも亡くなり、このところ熊本に行く機会が多くなりました。
そんな時、洋子の従兄にあたる浦本義輝さんは裕美を大変可愛がってくれます。
海や川、山遊びを良くしてくれ、所有の船で釣りを楽しんだこともあります。
数年後、彼は海の事故で亡くなり、
彼の遺言は「裕美や親戚の不幸は全部自分が背負ってやります」と。
優しい会話、思いやりのある義輝さんは浦本家の長男で、しかも代々引き継ぐご本家長男です。
裕美を背負い、抱っこして浦本家のお墓参りをした義輝さんは、
まだ結婚もされてない30才の若さでした。
この頃から私達家族が親離れし、釣り仲間や町内、学校、PTA等との付合いを子供と共に歩み、
行くことになります。そして洋子のお母さんが長崎県大村市の見明直雄さんと再婚します。
若松から小倉南志井に引越し
私34才、そろそろ自分の持ち家がほしくなり、若松、八幡方面の新築やマンションを見てまわる
機会もちます。しかし、小さな家がこんなに高いとは思いもよりません。
ある日、新聞で見た中古物件で格安。しかも交通の便が良い条件で早速、家族皆で見に行き、
一目ぼれで買うことにしました。しかし、資金がありませんので家中のお金をカキ集め、
ローンを組みます。
築14年の一戸建て、来年は都市モノレールが開通し、家から5分で志井駅に行けます。
10年住んだ、若松の社宅アパートから志井希望ヶ丘へ引っ越しです。
洋子の兄が会社の大型クレーンつきのトラックで引越し。
兄弟、親戚皆で加勢してくれ、安上がり。やっと一人前になった思いの我が家です。
しかし、これからが大変。志井からマイカーで若松の会社に通勤。早朝6時30分出発。
7時30分には会社に着いて色々。帰りは大混雑で70分〜90分は普通。
往復150分の運転はきつい。それで時々は泊まり込みの残業が、けっこう多くありました。
引越してユーミンは志井小学校へ転校。5年生のクラスは、わずか2クラスしかない田舎の学校。
しかし、この頃より児童が急激に増え続けました。ユーミンは音楽のフルート合唱団に入り、そのコンクールに於いて志井小学校は県大会、九州大会、そして大阪大会まで勝ち進み、金賞の賞状をもらいました。
真一は引越して次の年、家から7〜8分の志徳幼稚園に入園。
2年間ここでお世話になるのですが悪ガキ、女好きで随分、○○先生とハレンチ学園したそうです。
そんな真一が園で流行っていた遊びのサッカーが好きになり、村端先生のもと、北九州市幼稚園連盟主催の体育祭の選手になり、チビッ子サッカー大会の選手で、とにかく男子の中では注目を浴びる子供でした。
志井小学校に入学して早速、創部4年の小倉南少年サッカークラブに入部することになります。
1年生、16名のスタート。先輩が4年生で30名ほど。
3年生は15名。2年生は30名居たと思いますが、サッカーという新しいスポーツに親も子も分けわからずはまり込んでゆき、最終的には全国少年サッカー決勝大会、東京読売ランド出場まで果たします。
ここから洋子ちゃんの稿。小倉南志井の環境
志井の希望ヶ丘団地より歩いて20分ほどかかる志井小学校に裕美と真一が通い始めます。
中古の家ですが2Fの6畳には裕美と真一の机が二つ並べ、裕美のベットを置いて、子供の室があります。
その隣が主人の室です。下の和室は私の室?。後は台所、キッチンが12畳。
もちろんここでお食事をします。洗面所とお風呂等、水廻りは全て水道と都市ガス。
5年後には水洗となりました。住む環境も大変良く、緑も多く、買い物もすごく便利です。
なにより歩いて5分で都市モノレール志井駅があり、25分で小倉駅に行けるのですね。
又、緑がたくさんあり、空き地も多く、住まいの環境は大変良かった昭和年代でした。
それが子供が大きくなるにつれ、ドンドン都市化が進んでゆきます。
裕美が志徳中学校に入学した当時は2000人ほどのマンモス校でしたが、真一が中学に入るころは新しく守恒中学校ができ半分ほどになります。そのような環境の中に私達が居て、子育てがありました。
親が想う、子供の教育と、その進路を示す
私の個人的な志は、娘と息子、どちらか学校の先生になってほしかった!!
それは私の夢であり、先生への憧れでもありました。
その想いを子供に託す気持ちもありましたが、本当は、もっとシビアーな、幸福な家庭を築く為の教養であり、
良い学校に入り、良い会社に入り、世間一般的な社会人となってくれたらイイ、それが私の本音でもありました。
平凡な人間になる為、毎日を努力し、勉強も頑張ってもらいたい、その願いを子供に届けたつもりです。
その為には、自分自身も、しっかりした行動をとらなければならないし、社会の中の親父とし、
頑張っていることを認めてもらえるよう努力しなければならないのです。
親が子供と一緒になって遊ぶ、学ぶ、働く、コミュニケーションをとることを私達夫婦は特に気を使いました。
小学校から中学校までの親の責任は妻、洋子がPTA、学校、町内の子供会等で世話係、役員を模範的にします。
私もおよばずながら、そのサポートをしっかりしました。
その中で、子供の教育観は親の気持ちを率直に話し、子供自身の進路、目標を選び、進むことを望みます。
大人になる為の、社会人になる為のプロセスを教えながら、今することを教えたつもりです。
勉強や私生活は、自分自身の責任であることを、特に強調し。親は、そのサポートであることも。
ユーミンの学習塾とクラブ活動、子ども会
志井小学校へ転入し、早くも、たくさんのお友達ができたようだ。
ユーミンの誕生会も若松と同じように仲の良い女の子がたくさん来た。
洋子ママは大歓迎のご馳走を作った。2Fの洋室の一つを子供達の室にし、勉強机を二つ並べた。
ユーミンは、その室にベットを置き、真一は、まだ小さいので下の室で寝かせた。
志井小学校は楽器演奏会を得意とし、クラブ活動でも多くの時間をさいて練習した裕美。
そのことにより、福岡県大会 金賞。九州大会から、さらに全国大会の大阪会場まで行き、
チームワークの良さをみせた。もちろんユーミンはレギュラーで頑張った。
希望ヶ丘子供会では、女の子はバレーボールで校区や小倉南大会まで勝ち進んだ。
又、男子のソフトボールチームも毎年、抜群の成績を残し、小倉南区大会まで勝ち進み、保護者の頑張りが目立った。
しかし、こちらの方は、洋子ママが多く子供達と接した。
その中でユーミンは中学校に入学。そして、すぐさま塾通い。中学の三年間ズーッと学習塾に通い、希望する高校から、さらに大学までの進路を、自分自身の力で切り開けと指導した。しかし…… 。
スポーツ少年 真一の活躍
幼稚園の頃からサッカーボールに馴れ、遊んでいた真一が、親の知らぬ間に小倉南区内の幼稚園、サッカー大会に参加しました。もちろん選手として。小さなゴールポストに11人の子供達が競ってボールを入れ込むのだが、中々入らず苦戦しましたが、10数チームの中でもベスト4まで勝ち進んだようです。
又、幼稚園児の陸上競技会もあり、早さを競った体育会もあり、私は驚いた。
いずれも希望者とか選手のみの参加であったが、真一は、村端暢信先生のお気に入りであったので、全て参加した。もちろん私も洋子ママも保護者として付き添った。
真一は負けず嫌いで、洋子ママからガンバレと言われると、凄いパワーを発揮する。入賞メダルをいくつ貰っただろうか。そのような真一を見て、親が持ってない素質を知った。
もちろん志徳幼稚園、男子園児の中でも抜群のリーダー格を発揮した。
小倉南少年サッカークラブに入部
幼稚園卒園と同時に、村端学園が経営するスポーツ塾、小倉南少年サッカークラブに入部した。
本当は場違いと想ったが、真一が入りたい、村端園長先生も入部を勧めるので、洋子ママも乗り気であった。
志井小学校1年生と希望ヶ丘子供会、ソフトボールチームにも合わせて入会するので、大変かと想ったが、
まだ小さいので… が多くあった。週3度の小倉南少年サッカークラブの練習が志井幼稚園である。
その練習があるときには洋子ママがしょっちゅう見に行くので、村端理事長や永住監督から良く声を掛けられたようだ。そして私は、その学年後援会理事となった。
1年生、2年生、3年生から6年間最後まで続いた世話係。
保護者の皆さんと色々な付き合いをしながら子供達を見つめていた。
その中の子供、真一は大勢の中の1人の子供としか見ていない。
サッカーは個人プレーでなく、チームプレーが大切だということも後で知るが、その事で、
チームの中の真一を見るようになってしまった。
自分の息子が可愛い、応援してやりたいが、サッカークラブの中では、ほとんど息子を見ないようにし、
全体の子供を見ながら、先輩、後輩の子供達、そして父兄とのお付き合いを大事にした。
洋子ママはそのところを分かり、真一のお世話を気にかけていた。
しかし、家に帰ると、真一中心のサイクルに変わり、随分あっちこっちのグランドでボールを蹴って遊んだ。
早く言えば特訓をしたかも知れない。サッカーのことが分からない親も、
子供と遊びながら、けっこうボール蹴りがうまくなったと想う。
小倉南少年サッカークラブ 全日本少年サッカー大会で福岡県大会優勝
夢の全国決勝大会出場。 東京読売ランドへ。DFで真一 大活躍
サッカーというスポーツを教えてくれたのが村端暢信監督。
息子、真一に関わる少年サッカーの中で、親が一緒になって活動してゆくプロセスを6年間たずさわった。
お陰で、たくさんの保護者と友達になった。もちろん洋子ママはそれ以上に大活躍した。
その中心、真一も本当に良く頑張った。
親のため、サッカークラブの為、そして自分の為に小学校6年間、勉強と共に本当に良くガンバッた。
その主大成が少年サッカーの頂点である全日本少年サッカー全国決勝大会、東京読売ランド出場なのである。
高校野球で言うなら、球児憧れの甲子園出場である。
小倉南少年サッカークラブ代表監督、村端暢信さん、及び、理事長からスタッフ。
そして子供達、保護者を語れば100Pぐらいになりそうな気持ちなのだが、ここでは簡単に触れておく。
◎真一、小学校5年のとき、2部チームの志井少年サッカークラブに登録される。
その活動は凄まじかった。大阪を含む西日本レベルで遠征が始まったからだ。
そのおかげで多くの大会で入賞、優勝もあった。もちろん保護者の交流も深く根付き、感動の日々を送った。
◎6年生になり、1軍である小倉南少年サッカークラブに登録されると、もっとひどい活動が始まった。
その中で少年達の夢である全国少年サッカー大会、県内400チームの1つを争う、北九州大会、福岡大会優勝した。
8月の夏休み期間中にある、東京読売ランド(読売ジャイアンツがある球場、ホテル)で決勝大会。
全国から48チームが参加し、リーグ戦で試合、しかし決勝トーナメントに出場できなかったが、6泊7日プラス子供達にご褒美の東京ディズニーランドで1日、私は後援会、広報部という立場で、家族で子供達と付き添った。
良い取材もできたし、楽しい想い出もたくさんあった。
子供達と共に過ごした、あの一週間は忘れることができない。
小倉南少年サッカークラブ、及び、子供達に贈る本として、後援会が記念誌を1500冊を作成した。
◎真一はDFで活躍したが、6年生11名、プラス5年生が7名で1軍を構成した中で、この成績は奇跡とも言える。
子供の頑張りもあるが、指導した村端監督、杉本コーチ、野口コーチのおかげである事は子供達が良く知る。
それにしても、我が息子ながら真一は良くガンバッた。素晴らしいステージを見せてくれたことに感謝したい。
ユーミン 県立小倉南高校へ進学
しっかりした気立ての優しいユーミンは、なにごとにも負けないガンバリ屋さんである。
私に似た性格をもっているが、頭の良さは抜群!!
彼女が学校の先生になってくれたら? が願いだったが、それは親の生活に余裕がなかったから。
それと同時に、もう少しレベルアップした成績が欲しかった。
しかし、並以上の成績で、良い高校に行けたし、都市モノレールで通学30分は楽しかったそうだ。
真一、志徳中学校サッカー部と塾通い
ユーミン 憧れのイギリス留学
真一、夢破れ 九州国際大学付属高校へ進学
2008.5.28 つづく
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1975〜2006,9,公開 お元気ですか、毎日が忙しいこの頃
結婚して早35年、親の気持ち、子の考え、
そしてユーミン誕生から 嫁ぐ日まで
長男,真一によせる親心は開花するのか