2025.1. リニュアルオープンしました 皆さんお元気ですか  musick 決戦は金曜日 (ドリーム) 7

  2006.開設した勇哲.洋子のポートフォリオ       2010.1.勇哲.洋子のポートフォリオ.は、38リンク3500pリニュアルしました
  
そして2017.7.より勇哲.洋子のポートフォリオ.へ続き      新.2025.勇哲.洋子のポートフォリオ.

       

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965,〜2007, 勇哲.洋子ポートフォリオ パート1. から、ご覧頂いています

       釣りバカ三兄弟プラス 1      


      

お魚
さんとり合った釣りバカ三兄弟が育つまで
 お魚さんと三兄弟がめぐり合ったものは
  お魚さんとりのしさきる幸福、そして人生
   お魚りでたものもらったもの兄弟愛人間愛、社会愛


                     
筆者 上瀧勇哲


      


◎遊びの釣りが趣味となり、多くの人と結ばれた
◎その趣味をたずさえて三兄弟が繰り広げる多くのドラマは
 さらに釣りバカ達の絆を深める
◎そして長男、勇哲は釣りで妻を釣り、義兄弟の交遊もさらに発展してゆく
◎良く遊び、良く学び、無我夢中で釣りに没頭してゆく釣りバカ達は
 そこで、生きる道、生きる喜びを感じた
◎そのライフスタイル、夢、ロマンを追い求めていた時代を振り返ってみた

                      上瀧勇哲


始めに釣りバカ達の生まれ育った環境

北九州市の小倉といえば商業で栄えた城下町であるが、そのシンボルが小倉城。

そして夏祭り小倉祇園は無法松で名高い勇壮な祇園太鼓である。

私が生まれ育ったところは、それより30分ほどの三萩野三郎丸という町で、
のどかな田園が広がっていた。

緑が多く、小出川という川には田ブナやメダカ、ハエ、ウナギ、
ザリガニも素手で取れていた。

川釣りでコイ、フナが良く釣れた川が三郎丸小学校をかすめて流れていた。

そういえば、小学校の理科、社会科授業でもこの川を多く利用した。

私の家は畳屋で、当時、親父と母は5〜6人の職人さんをつかって畳を製造し、
商売もうまくいっていた時でもあった。

釣りのきっかけ           
 

子供の頃の遊びといえば自然を相手にした山や川となるが、     
そのころの川は奇麗で清流もあった小出川の上流にはウナギの稚魚が多く、
ウナギを専門に捕る釣り人も多く居た。

私達はザルでザリガニや田ブナ、オイカワ(ハエ)、ナマズ、コイをザルですくい、
持ち帰っては手作りの池、水溝に入れていた。

又、益田さん兄弟は飲み水の井戸の中にコイを入れて怒られたこともあった。

そんな子供の頃の遊びの釣りが、やがて海釣りに関わってくるのだが、
そのきっかけは、次男の哲郎が門司でカレイを釣ってきたり、

従兄の益田勝義さんが砂津や藍ノ島、馬島で小ダイ、キス、
カレイを釣り、誘われてから
三兄弟がしぜんに海釣りを覚えたことが始まりになる。

吉田印刷磯釣倶楽部

釣り好きのグループが会社組織で活動することにより、
親和会という社員の積立厚生基金より補助金を貰えることになり、
正式な釣りクラブ発足となったのが、私が入社して三年目のころだった。

その釣りクラブ、釣行や釣り大会ときに私の親戚、身内、仲間が多く加わった。

その会をリードするのが釣りバカ三兄弟と浦本英二さんであった。

その仲間の中に小林 昭さん、益田勝義さんも居た。





三萩野サーフキャスティングクラブ

次男の哲郎は学校卒業から東洋陶器本社に入社した。

その三年後、三男の周作も同じ会社に入社することになるが、
その過程は哲郎の趣味である釣りに関わる。

哲郎の上司が北野 孝さん、
後の全日本サーフ「三萩野サーフキャスティングクラブ会長」から

「北九州協会長」までお世話する方で、
哲郎の職場の上司でありながら身近に接してくれた良き先輩でもあった。

周作は学生の頃より三萩野サーフに入会しており、その会がTOTO本社釣り部にあったので、
進路はやはり釣り先輩達が多く居るTOTO機器であった。

そして求人倍率の高いその会社に入社できた。

そして二人の釣りバカに誘われて私も三年ほど三萩野サーフキャスティングクラブに入会したが、
その活動の広さに驚いた。

又、その仲間達の交遊の多さを始めて知った。

釣りバカ三兄弟が投げ釣りを覚えたのもこのクラブに入会してからである。


釣りバカ達の 大分県蒲江のキス、クロ釣行  ビデオよ

盆休みを利用して一泊二日の釣行を決めた釣りバカ三兄弟とプラスワンの浦本。

場所は通い馴れた大分県蒲江、小向港。

浦本がテント張り。夜は何を食べたか分からないが、波止でクロ釣り。キス釣りしながら遊んだ。

帰り道の蒲江峠の滝ツボに入って海水浴色々。

釣りでなくて、ドライブで遊んだ色々。

釣りバカ達の 四国佐田岬半島の釣行

海釣りを覚えたてのころ、随分、佐田岬半島に通った。

それも釣りバカ達と一泊二日の釣行で、泊まりは正野港の神社境内。

雨、風はしのげるし、宴会はできるし。波止から面白いように魚は釣れる。

とにかく釣り天国。

もちろん佐賀関半島までの海岸ドライブ、70分のフェリーの旅、別府で温泉と買い物色々。

釣りバカと浦本兄妹に石田、徳王の美女を連れての釣行もあった。若い頃のお話。


釣りバカ達の 海洋磯釣倶楽部結成           

釣りバカ兄弟をベースにした釣りクラブを結成した。

そのメンバーには益田勝義さんや会社の連中を加えて、
あっちこっち飛び跳ねた若い頃の釣りクラブ

その中で浦本英二さんの存在は大きく、いつも色々なアイディアで楽しさを演出してくれた。

独身の若者7人プラス10人ほどの釣りクラブが、
いまだに続いている現実は海洋のホームページを見てくれたら分かる。

TOTO機器釣り部の活動とその後        

TOTO本社釣り部には投げ釣り部門の三萩野サーフキャスティングクラブがあったが、
弟と二人は第二工場の小倉南くさみ工場に移動した。

そこにはやはり趣味のサークル釣り部があった。

このクラブ多いときで50名を超えていたが、現在はOB会員も含めて30名あまりで活動している。

昭和年代の頃は貸切りバスで長崎大瀬戸、平戸、大分方面の釣行が多くあったが、
マイカー時代となり、釣行スタイルは個人的なサークルに変わった。

ただ、年に1〜2度、長崎県対馬もしくは、五島福江方面の釣行もあり、
年6度の大会も楽しんでいるようだ。

その釣り部のお世話係を周作が取り仕切っている。


釣りバカがもたらした親戚付き合いの接点

釣りしか興味のない釣りバカ達は競って週末は釣り。
その釣りの中にたくさんの仲間が加わる。

近所の同年代の若者や会社仲間。
そして従兄弟の小林和彦くん、正くん、父親の小林 明さんは特に釣りが好きだった。

釣りバカ三兄弟の実家があった三郎丸は特に有名で、
いつも魚を近所におすそ分けする母親が楽しそうだった。

近所には親父の親戚が多く、昔なじみの知人が多く居たので
、その接点は全て魚釣りで結ばれている。

その釣りバカ達の出会いの挨拶は「魚釣りが好きです」






釣りバカ三兄弟 プラスワン その後

英二     


彼が釣り竿を置いて10年ほどになる。
多趣味な彼は、競馬からモータースポーツまで色々。

2女1男の5人家族で平和なライフスタイルを日比送っているが、
子供達に支えられていることは確か !!

洋子

お魚さんと関わって35年余り。
私の釣り指導もあるが、本気になって釣りクラブに入会してからの活動は凄いものがある。

今は釣界のお世話係に比重をおき、私のサポート役を楽しんでいる。 
釣りのファン子

哲郎

彼こそ釣りバカそのもの。
この道一筋、とは言わないが、釣りがあるからこそ今の人生があり
、多くの先輩達との交流のおかげで生きている。

その趣味を活かしたボランティア精神に基づき多くの釣りファンをもつ。

釣界の世話係で今、夢中。

周作

クールな彼も、もう50代。

多趣味の中で釣りは交遊の広場としてサークル活動のセンター役を、
いつもボランティアでやっている。

TOTO釣り部の事務局長から町内会でもその影響力は大きく、彼の道筋はいつも新鮮さが漂う。

一男一女も成人し、今から何かをしてくれそうな予感がする。

勇哲、私                    

自問ながら、我が道を進む。

多くの仲間達を引き連れて社会の為、自己の為、そして……




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 勇哲.洋子のポートフォリオ パート1. からご覧頂いています。    

新しい2017.7.「勇哲.洋子ポートフォリオ パート3」をご覧下さい