勇ちゃんの故郷、牛島家と上瀧家

 私の心の故郷は北九州小倉守恒です。


私は旧 小倉市守恒で生まれ、牛島のおじいちゃん、おばあちゃんの手から産声を上げました。

その生まれ育った優しい自然環境の中で、おばあちゃんと、おじいちゃんに可愛がられた思い出は、今でも時空を超えてよみがえることができます。

祖父 牛島栄六、千代は、私の母(ヨシエ)の親ですが、栄六おじいちゃんは私が小学校4年生頃に去りました。
千代おばあちゃんは長生きできて私が26歳のとき一人寂しく亡くなります。

その、おじいちゃん、おばあちゃんが、佐賀県から北九州市に移り住んで、私達を育ててくれた、ことの、昔話を紹介します。

お話は母から聞いたこと、昭おじさんや牛島家と関わった、
たくさんの人々のお話し、そして私達兄弟が優しく育てられたことを、まとめてみました。



佐賀県神崎「牛島ご本家」に訪問

まず最初に平成19年3月4日、20数年ぶりに佐賀県神崎のご本家となる牛島家のお墓参りをいたしました。

一昨年、小林 昭おじさんが、この地に来られ、牛島博子さん、牛島 保さんとお会いして、私の母(ヨシエ)の法要として、香典を頂いたことによる、初めての訪問なのです。

30数年前、母と一緒に牛島家、歴代の大きな石のお墓を見て驚いたのですが、あれから上瀧家としての、お付合いはありませんでした。

今度は想いあまって、分けわからず強引に出かけてみました。
しかし住所が分かっても電話番号も知らない、
お寺も忘れてしまい、知らないばかりでしたが、洋子ちゃんの愛車、ホンダライフ のカーナビで、なんとか近くまで行きます。

 


あとは聞き歩いて、牛島 保さん家にたどり着き、奥様とご主人様にお会いしてから、お寺参りと、お墓まいり、

そして、ご本家である牛島博子さん家にご案内され、ご先祖様に手を合わせ、おじいちゃん、おばあちゃん、そして母の分まで、お念仏を唱えて少し気が晴れたのでした。

突然の訪問でしたので、ご迷惑をおかけしましたが、
温かいおもてなしを受け、オミヤゲまで頂いて、気のどくいような、ご先祖様のお墓参りでした。

これをきっかけに繋がりを持てることは、きっと母も、おじいちゃん、おばあちゃんも喜んでくれることでしょう。
ありがとうございました。

 


北九州小倉、牛島家の生いたち

私が小学校に通い始めた頃の夏休み、冬休みは、ほとんど、おじいちゃん家で過ごしたようです。

そのおじいちゃんの口癖は、若いとき海軍の将校さんで、戦艦「  」に乗船し輝かしい戦歴があったそうです。

その「  」が係留していた佐世保港で終戦となり、生きながらえたそうです。
もちろん最後の沖縄戦にも戦艦大和、ともに出動したかったのだけれども、修理ドッグ中で行かれなかった。とか聞きます。
ちなみに沖縄本島を総指揮されていた牛島中将はご親戚筋にあたる方ではないかと思います。

さて、おじいちゃん、おばあちゃんは佐賀県、前の鍋島藩の藩士の子孫で、牛島家とは分家にあたり、牛島家の中でも7人兄弟の6番目だから栄六と名付けられたそうです。

ちなみに佐賀市内にある牛島家、ご本家屋敷も観光的に残されているので、2年前、見てきました。

その栄六おじいちゃんは終戦後、八幡製鉄所に入り、八幡で暮らしていましたが、落ち着かず、北九州市小倉南、守恒の山を一つ買って、ここに移り住み、家を建て、山並の盆地を利用して農業と酪農を始めました。

私が子供の頃は、広い山並を利用して、果物、野菜等、30種は作っていたようです。
それに乳牛、ブタ舎、養鶏場など、幅広く営み、この地域では商売上手の有名な方でした。

栄六おじいちゃんには、5人の子供が居て、長女が私の母、ヨシエ。
長男は善六、次男が亨、三男が博、四男が昭でした。

その子供達が父親の加勢をする分けですが、戦後から間もない復興の時代であり、国民全てが皆貧乏で一生懸命働くのが当たり前の時代でしたので、おじいちゃん、おばあちゃんは朝早くから夜遅くまで実に良く働きます。

その姿を見ながら子供達も無我夢中に働き、財産を築くことになりました。

そんなとき母(ヨシエ)が、近くに住む畳職の上瀧松義(父)と、見合い結婚し、私がこの地で生まれたのでした。

ちなみに、栄六おじいちゃんと千代おばあちゃんには、男5人、女5人生まれますが、4女1男は生まれて間もなく亡くなったそうです。
お墓は守恒本家があった、墓所そばの山手にあります。


牛島家の初孫として小倉守恒で私が生まれた

上瀧松義(父) の同郷は小城市ですが、その祖父、陶芸職の長次郎と内村チエが結婚し、北九州市八幡で父が生まれます。

奉公先の父が畳職人として小倉南守恒に居たとき、牛島ヨシエとお見合いをして結婚します。
そして次の年の冬、守恒に里帰りしていた母が、おばあちゃん、おじいちゃんが見守る中、出産することになります。

その日は大雪が降りしきる中、産婆さんが何とかやって来て、生まれたそうです。

牛島家、上瀧家の初孫になる私は、それはもう皆が大喜び、紅白の餅をつくやら、近所、親戚皆集まって盛大なお祝いをした、と母が教えてくれました。


昭和30年代の小倉市守恒、牛島家

今は見る影もないほど昔の景観は一つも残されてない小倉守恒ですが、
唯一その景観を留めているのが墓所です。


その面影を回想してみると、

私道に面した牛島家の墓から、上の揺るかやな斜面地、左手に、大きなイグサ屋根の牛島おじいちゃん家がありました。

そのそばに500羽の鶏舎があり、家となりが6頭の牛舎がありました。
50m離れた墓所近くに、ブタ舎があり、4つほどのブタ舎には、多いときで50頭ほどのブタがブウブウ、エサくれと泣いてました。

そしてその家から続く斜面には白菜、大根、人参、玉葱、ウリ、キュウリ、スイカ、トマト畑等、当時あった野菜の90%はここで作っていました。その斜面畑下には下池の権現池がありました。その上にも大きな上池があり、山並を利用した当時の農業いけでした。

そして上の山並には果物のカキ、イチジク、ブドウ、ミカン、キンカン等、まだまだたくさんあったようで、物凄いことをしていたようです。

朝起きると決まって絞りたての牛乳が飲め、
畑に出れば、なんでも取って食べれた幼少期でした。

そんな自然環境に加えて、農園から続く山の斜面下の
権現池そばには、おじいちゃんのお友達が経営する乳牛舎がいくつもありました。又、牛島家の裏山に続く所には、牧場が山半分ほどありました。

その下に上池があり、それはもう素晴らしい景観がありました。
そんな大自然の中で飛び跳ねた子供の私、楽しい時代でした。

そのような景観が少しずつ変わってくるようになったのは、
栄六おじいちゃんの酒グセと、息子達の親離れがありました。

そんなとき新しい家を、もう少し山奥の牧場そばに建て、借家も建てます。
新築の家に自慢の海軍将校さん時の写真。
戦艦「  」、そして戦争で亡くなったおじいちゃん兄弟の写真が飾られていました。
又、おじいちゃん自慢の家宝のヤリや刀、種子島鉄砲、軍刀も床の間に飾られていましたから、ご先祖様のありようが一目で分かるものでした。

そんなおじいちゃん、おばあちゃんから私は大切に育てられます。


牛島家の壊滅

新しい家は小高い山の上にあり、
家から2つの権現池が見え、
遠くは小倉市内から海が見えるほどの景観で、

時々ある夏祭りの花火がここから見えることもありました。

そんな、おじいちゃん自慢の手作り家も井戸水で、
おくどさんの釜で、ご飯を炊く時代です。
唯一温かい掘りごたつは炭火で、その掘りごたつに入り、
おじいちゃんの自慢話を良く聞いたものです。

そんな頃、長男の善六さんが結婚します。
しかし奥様が間もなく亡くなり、その後、もう一度再婚されましたが子供はできなかったようです。

次男の亨さんも、おじいちゃんのキモ入りで結婚。
そして友行が生まれます。
この子を牛島家の跡継ぎにすることになり、おじいちゃんは随分、この子を可愛がります。

しかし、焼酎の飲みすぎで肝臓を悪くし、65才で亡くなりました。

その頃より経営していた農業、酪農事業が、色々なところでアクシデントに遭遇し、衰退してゆきます。

長男の善六さんは、門司の北九州港運に勤め、
次男の亨さんも兄の紹介で同じ会社に勤めますが、奥様と離婚。
その後、再婚して二人の女の子をもうけます。

三男の博さんは名古屋で結婚され、兜x士通に勤めます。

四男の昭さんは門司海上保安学校を卒業し、神戸商船大学に入り、船員となりました。

博さんは同じ牛島の名を持ちますが、熊本県の八代に養子。

四男の昭さんも結婚して小林家に養子に行くことになり、
3男3女をもうけます。

そして牛島家5兄弟、まさか後継者が消滅するとは、おじいちゃん、夢にも想わなかったことでしょう。

長女ヨシエは上瀧家に嫁ぎ、
長男善六は再婚しても子供ができず、職業病ともいわれる病で、50才そこそこで亡くなります。

そして次男の亨おじさんも再婚して女の子を二人もうけますが、幼い子供を残し、長男と同じ病気で43才で亡くなります。
女の子二人は母方へ引き取られ、奥様も離婚となります。

三男、四男は養子。
残った亨さんの子供、友行は事情があり上瀧家の養子となりますが、
彼は私達から去り、
小倉牛島家の後を継ぐものは誰も居ない状況となります。


小倉守恒、牛島家のお墓を守る

これまでのストリーは私が知る限りのもので、
私が見て、触れて、体験したことばかりを正直に書いてみました。

もっと本筋があるのかも知れませんが、牛島栄六おじいちゃんが残したものは、私の心の中にしかありません。
正直、私達に残る遺品も形見もないのです。

今、お墓の中で眠るおじいちゃん、おばあちゃんの家族は、本当に苦労して、仕事をたくさんして、私達を支えてくれました。

感謝することは、たくさんありますが、今できることは、年中絶やさずお墓参りすること。
そして手を合わせ、牛島家に感謝する気持ちだけです。

私の従兄にあたる益田勝義さんは年に10度ほど、牛島おじいちゃんのお墓に、豪華なお花を供えてくれる方です。
もちろん、その隣にある上瀧家のお墓にも同じよう供えて手を合わせてくれます。

益田勝義さんについては、益田家のサイトでお話しますが、
彼も私達と同じように牛島のおじいちゃんから好かれた方です。
そのご恩返しをしていると想うのですが、直系の私達以上に牛島家に気をつかってくれます。
そのような親しみ、優しさを感じさせる、おじいちゃんを知る人々。

後継者が居なくても私達が見守る。
そのような心で牛島家を末永く見届けたいと思います。


牛島家と上瀧家のつながり、そして

私がこの稿で何が言いたいか? 
それは子供の頃の守恒の景観なのです。

野や畑、牧場、上池、下池に注ぎ込まれる冷たい山水。
その豊かな自然美の中で働くおじいちゃん、おばあちゃんの姿。
又、善六、亨おじさん達、それを囲むたくさんな動物との関わりです。

取立ての甘いスイカ、ウリ、トマトを山水で冷やし、切ってくれた優しいおじいちゃん、おばあちゃん。

亨おじさんから教えてもらった池の釣りと魚すくい、ザリガニ捕り。
おばあちゃんが小倉魚町旦過へ商売に行って菓子を買ってきてくれること。

じいちゃん子、ばあちゃん子で、ひどく甘えた時代を懐かしみ、
この稿でしたためたかったのです。



読んで頂いてありがとうございます。
ご親戚の皆様には、なにか心の中に響いてくれるものがありましたら幸せです。
尚、この稿について何かありましたら、お便りをお寄せ下さい。
必ずご返事をいたします。

              文責  上瀧勇哲






                        ポートフォーリオTOP










2025.1. リニュアルオープンしました 皆さんお元気ですか  musick みじかくも美しく燃え(ポール・モーリア) 22
    2025.1月.更新   平成22年2月  佐賀県神埼郡牛島家先祖さま訪問

    勇ちゃんの故郷.牛島家

     佐賀牛島家より分家した牛島栄六と千代の物語
      その五人の子供達は
       牛島家の本家、佐賀から歴史を知る


                     
ペンネーム 大和三郎丸 (上瀧勇哲)
      2025より 上瀧勇哲ホームスタジオ125リンク5300p配信中です
  2006.開設した勇哲.洋子のポートフォリオ       2010.1.勇哲.洋子のポートフォリオ.は、38リンク3500pリニュアルしました
  
そして2017.7.より勇哲.洋子のポートフォリオ.へ続き      新.2025.勇哲.洋子のポートフォリオ.
     勇ちゃんの故郷牛島家上瀧家

  北九州.牛島家
上瀧家初孫

   佐賀鍋島藩 牛島家より分家した牛島栄六
     
その祖父歴史ヒストリア紹介します

       大和(やまと)三郎丸(さぶろうまる) ( (じょう)(たき)(ゆう)(てつ)

新しい年を迎えた平成302月に、この稿を書いていますが、私が生まれた212日は年間を通して最も雪が降り積もる季節です。
その厳寒期の昭和25年2月に私は牛島家の実家で生まれました。そのことから私の幼い生い立ちを紹介します。

私が生まれた福岡県北九州市小倉南区守恒は、小高い山並に囲まれた自然美、豊かな景勝地でした。
母の実家である、この場所は、祖父の栄六おじいちゃんと千代おばあちゃんが、佐賀県神崎郡から移住し、農業を営んでいました。
千代さんには11人の子供が生まれましたが、その中の長女が母。弟4人は、男の子でしたが、生まれて数ヶ月、数年の子供は6人いたそうです。

お爺ちゃんが住んでいた母屋は、床の間を中心に8畳間が二つ並び、食事をするイロリの戸間は16畳ぐらい。ここを中心にして兄弟の室が二つほどあったと想います。
私が子供のころは祖父の横で寝ていましたが、天井は高く、巨木の張りが見える大きな家でした。
その上り口の炊き出し土間は広く、大きな釜戸が3つ並び、燃料とする木材、木炭(スミ)、大きな水瓶から、食事を作るスペースの、台所そばには、食糧保管庫の室から、農業の為の大切な物を保管していましたから、かなり広い、大きな茅葺造りの家だと想います。

その母屋前の広場に、手作りした大きな石造りの井戸は、深さ25mほど、ツルベ方式で屋根に滑車が付いており、両方に水汲みバケツが付いているので、幼稚園の私でも上手に汲むことができていました。その井戸水をブリキバケツに入れ、30m先の丸い五右衛門風呂に入れます。下から焚き木で沸かす風呂釜ですが、大きな鉄で出来た丸い釡は底板を敷いた上に乗り、湯につかります。子供のころは祖父と一緒に入ったようですが、兄弟で、はしゃいだことを良く覚えています。その五右衛門風呂は、露天風呂のようなもので、屋根があるだけのものでした。その後ろに便所がありましたが、その糞弁は農業肥料として使われています。

その母屋を中心にして、隣りの牛舎には5頭ほどの乳牛がいました。朝早く乳を搾り、小倉北方の国立病院とか協同組合に届けていました。又、牛舎をはさんで隣りの大きな建物には500羽ほどの養鶏場があり、毎日取れる赤、白玉子も、協同組合に卸していたようです。
その通りから墓所がある場所下に、ブタ舎が5棟ほどあり、子ブタがヒイヒイ、ひしめきあい、そのブタを育てる為、国立病院から廃棄される残飯などを与えていました。
それにアサリ貝とかカキなどの甲殻類は鶏のエサとして細かく砕き穀物と一緒に与えていましたので、子供の私は、その手伝いを良くしました。

そのような事業から、山を二つほど購入し、農業もしていました。広い、なだらかな斜面にダイコン、白菜、スイカ、トマト、ウリ、エンドウマメなど、その当時、市場に出回っていた、ほとんどの野菜を作っていたのです。そのことで朝から夜遅くまで祖父母、子供達は大変な働きをしていたと想います。まだ2〜6才の私が知る、母方の実家は、酪農、畜産、養鶏場など、広く手掛けていましたから、地域では商売上手として有名な栄六お爺ちゃんでした。

始めに戻りますが、私が生まれた2月のことです。正月から雪が降り積もり、守恒山のふもとは50pほどの積雪です。2ヶ月ほど前から、実家でお産をする母は、祖父の家で暮らしていました。そして産気づいたことで、ふもとのお産婆さんを迎えに、亨おじさんが行きます。
この日は大雪で嵐のような猛吹雪。お産婆さんも、この雪と山登りは大変だったようですが、無事たどりつき、祖父母、兄弟が見守る中、私が生まれたそうです。
昔のことですから、釜戸で大量の湯を沸かし、産湯につかり、心地良く泣いていたそうです。

上瀧家の初孫、牛島栄六お爺ちゃんの初孫として生まれた私は、親戚みんな大喜び、家族みんなで紅白の餅つき、親戚、ご近所など、たくさんの人々を招待し、数日お祝いをしたそうです。このお話しは、お爺ちゃんや母(よしえ)から聞いたことを書いています。

その、牛島栄六お爺ちゃん家は、臨済宗の門徒としてご先祖様を崇めていました。
佐賀県神埼郡牛津町と佐賀市内の家系から繋がる、ご親戚の多くは、臨済宗ですが、ご本家筋は牛津町○○寺です。その寺の正門に高さ5mほどの牛島の石碑が代々牛島家に伝わる墓標でした。
本殿に入ると牛島家ゆかりの人々の遺影から位牌があります。明治から大正にかけてのものが数多くあるのですが、ご本家筋は鍋島藩の藩士であった、牛島家に繋がる分家であること、明治に改革された廃藩置県による処遇で、武士も土地を与えられ、生活の糧を米作りから始めることになったからです。ご本家筋は政治に関わることで佐賀市内から、東京で、国の形を整える役目を果たした、とされますが、詳しくは調べておりません。

牛島栄六お爺ちゃんの、お父さんには7人兄弟がいました。その6番目でしたから、栄六と名付けられたそうです。そして牛津町から北九州市の八幡製鉄所に入りました。
ここで生活基盤を築く事でしたが、太平洋戦争で召集令状がきて、海軍の予科練に入隊します。下士官になり、戦艦陸奥に乗船したそうです。伍長という階級は分からないのですが、その当時のおじいちゃんの写真を見たことがあります。白い海軍士官の制服にシャーベル姿はカッコ良かったと想います。


戦艦陸奥は水上機を持つ特殊戦艦で、海軍の旗艦として活躍したそうです。しかし、昭和17年、瀬戸内海周防大島沖に係留していた陸奥は原因不明の火災を起こし沈没しました。11000名あまりの乗員が死亡、300名あまりの方が奇跡的に助かった、その中にお爺ちゃんがいました。
その後、終戦となった事で生きられたそうです。その牛島栄六お爺ちゃんの兄弟7人全員、戦争に行き、5人は陸軍で召還され、4人の兄弟が戦争で亡くなったと聞いています。

佐賀県牛津町の○○寺に行くと、お爺ちゃんの、ご先祖様があります。
詳しくは分からないのですが、私のDNAも、ご先祖様から繋がっていることで、時々の訪問に感謝の祈りをします。又、お爺ちゃんの、お兄さんから、ご親戚筋の遺影が、お爺ちゃん家の欄間に掛けられ、床の間には明治天皇、乃木大将の肖像がありました。

そして、新しく建てられた家の床の間に神様を祭り、その隣りに大きな仏間もありましたが、その部屋の欄間に、お爺ちゃんのご先祖様の写真から兄弟、ご先祖様に繋がる種子島銃、ヤリ、刀などが飾られ、お爺ちゃんの威厳が、この室に立ち込めていました。
その室で法要がたくさんあったように想いますが、ご先祖様を大切にしていた想いが、良く分かる家系でした。


その栄六お爺ちゃん、昔から、だるま焼酎が大好きで、けっこう強い酒を飲んでいたようです。医者から止められていた、にもかかわらず、仕事などの色々な付き合いで飲みすぎ、死にかけた事も何度もあります。そのことで63才の命を終えました。その後、主を亡くした牛島家の崩壊が始まります。
この当時、酪農、畜産業、農業は世界経済の革新的な流通から資本経済の公領により、海外から安いものが入るようになります。協同組合から生産性を上げる国政による農業組合がパワーを握り、個人事業主は消えゆくのが当たり前の時代になりました。
このことに兄弟は対応しきれず、お爺ちゃんの事業が消えました。
その後、残された家族の有様で、お爺ちゃんの遺産が跡形もなく消え去り、想い出の山が守恒地区、企救丘地区の住宅地となり、二つの明神池が埋められ、デパート、マンションが立ち並ぶ商業地となりました。守恒地区には、お爺ちゃんのような大きな牧場を持つ地主や畜産、農業経営者がいましたが、牛島家同様な運命がありました。


そして、その牛島家を探す目印は墓所だけとなりました。
今、その側に新しいお寺ができ、ささやかな山地が残っています。お爺ちゃんの親しいお友達、谷口家墓、その隣りに、お爺ちゃんの6人の子供の墓がありますが、その山地、登山、斜面上に細い道が残っていますが、その道に繋がる山道の奥に新しいお爺ちゃんの家が、昔ありました。その行き止まり先が企救丘地区となっています。


昭和30年代のころです、赤土でぬかるみ、バイクでリヤカーを繋ぎ、登りを手押した子供の頃を想い出す坂道です。一つ目の山頂には小さな祠神社を祭り、広場で豊作を願う祭りもありました。その広場の松の木の枝に、ブランコを作ってくれた次男の、亨おじさん。近くに住む同じ年の横山、後小路などの子供が、ここに集まり遊んでいた夏休みが多くありました。
そこから続くもう一つの山頂に、新しい家を建てたお爺ちゃん。ついでにもう一つ大きな家を建て、そこに長男、次男の息子夫婦と生活を始めたとき、私は小学校から中学生になっていました。

その頃より、お爺ちゃんの事業は縮小してゆくのですが、小倉、旦過橋そばで行商をしていたお婆ちゃんは、畑で作った、たくさんの作物を直接売ることで、生計を立てていた時代でもありましたから、小学生時代の冬休み、夏休みは、ほとんど牛島家で過ごした幸福な想い出は、お爺ちゃん、お婆ちゃんが、元気で仕事をしていたときでした。

孫を諭し、運動会とか小倉祇園祭り、若松恵比須神社詣など、たくさん精一杯、遊んでくれた、優しい栄六お爺ちゃんでしたが、いつの日か旅たち、この守恒山から牛島家が消えてしまう等、考えもしない出来事に、子供の私は見つめることしか、できなかったのです。
そして今でも私の記憶の中で蘇る守恒山の自然景観は、広い牧場に、上下あった二つの竜神大池と、そこに注がれる小川の源流は、山水と、滝壺。そこの主がサンショウオ。湧き出る冷たい滝壺にトマトにスイカ、黄色い瓜にキュウリを入れた野菜は食べ放題の夏休み。亨おじさんが教えてくれたウナギ取り、ザリガニは素手で入れ取りの小川。
そして、いつでも遊べた動物達は、愛犬クロ、農作業に大活躍した牛、搾りたての牛乳が飲めた乳牛、鶏、サツマイモを切って与えた子豚など、生きている自然と遊んだ、学んだ、ことの想い出はみんな牛島のおじいちゃんのおかげ、その事を忘れずに生きてきました。そしてこの事を本文に紹介し、若い、ご親戚の方々、守恒地域で生活している、たくさんの人々に知ってほしいことを書きました。


皆さん、自然で遊べること、触れ合えること、もっともっと楽しんで下さいね。
そして、興味があるなら守恒山墓所の牛島家、隣りに上瀧家があります。どうぞ手を合わせて下さいね。


2020.8.   2017.の本文を修正、公開しました。
                        上瀧勇哲



スターコーンFM 様

みなさん、こんにちは。
三善由加里さん、こんにちは。
さて、先ほどの「焼うどん」の、お話しですが、
小倉っ子の私は、子供のころ、おばあちゃんが旦過(たんが)市場(いちば)で仕事をして、いましたので
「焼うどん」を、良く食べていました。


小倉(うお)(まち)とか旦過(たんが)市場(いちば)は北九州小倉の台所として、食文化が栄えたところで、旦過市場そばに

丸和という「スーパーマーケット」日本で初めてできた地としても有名です。


そのような小倉っ子のお祭りは、小倉祇園太鼓ですね。この祭りで遊んだ子供のころが懐かしいです。

2015.9.3
ラジオネーム 大和  上瀧(じょうたき)(ゆう)(てつ)
♪リクエスト …… 村田英雄 「無法松の一生」お願いします。